前の晩、私は博多で2軒はしごしていた。1軒目で鯖の刺身と胡麻さばを食べ、2軒目でも胡麻さばを食べ、そのまま気持ちよく酔って宿に帰った。
その2軒については別に報告している。1軒目が博多駅前の鯖鉄、2軒目が櫛田神社前の博多 あかちょこべである。
その翌朝、私は巨大な寝釈迦の前に立っていた。

福岡県糟屋郡篠栗町、南蔵院の釈迦涅槃像である。曇っていた。像の背後には山の緑がそのまま迫っていて、広い石畳には人がまばらにいるだけだった。前夜の酒はもう抜けている。この日は、朝から一滴も飲んでいない。
そして涅槃像を見たあと、私は同じ篠栗町の中にあるコーヒー屋に向かった。篠栗珈琲焙煎所という。
この報告には、酒が一滴も出てこない
先に断っておく。この記事には酒が出てこない。ビールもハイボールも焼酎も、一杯も飲んでいない。飲んだのはアイスコーヒーとエスプレッソだけである。
呑み歩き研究所と名乗っておきながら何の報告なのか、と思われるかもしれない。私もそう思った。それでも書くことにしたのは、呑み歩きをする人間にも、酒を飲まない時間は必ずあるからだ。旅先の午前中がまさにそれで、この時間にどこへ入るかで、その日の後半の機嫌がわりと決まる。
前夜に2軒はしごした翌日の午前中というのは、体は動くが胃はまだ本調子ではない、という中途半端な状態である。そこに何を入れるか。私の場合、答えはコーヒーだった。
豆を煎っているところが、そのまま店になっている
店に入ると、壁に黒い切り文字で店名が出ていた。

木のルーバーを張ったカウンターの上に、小さな盆栽がひとつ置いてある。壁は一面の塗り壁で、余計なものが貼られていない。奥の部屋が見通せるようになっていて、そこに焙煎の設備らしいものが見えた。
この店は名前のとおり、店内で豆を煎って、挽いて、出してくれる。焙煎所がそのまま客席とつながっている造りで、飲んでいるコーヒーがどこで煎られたのかが、座ったまま目で確認できる。「自家焙煎」と書いてある店は世の中にいくらでもあるが、焙煎機のある部屋と自分のテーブルが同じ建物の中でつながっている店は、そう多くない。
香りについて、正直に書いておく。私が座ったのは焙煎機から離れた席で、豆の焼ける匂いが立ちこめていた、というほどのことはなかった。ただ、店に入った瞬間の空気は、たしかにコーヒー屋のそれだった。
3年空けて、まったく同じものを頼んでいた
さて、ここからがこの記事の本題である。
私はこの店に2回来ている。1回目が2023年8月7日、2回目が2026年7月18日。ちょうど3年空いている。1回目のときはこの店ができてまだ数か月という頃だった。
そして写真を並べて、自分でも笑ってしまった。

これが2026年。丸みのあるタンブラーに入ったアイスコーヒーと、黒い釉薬の陶器に入ったエスプレッソ。
そして、こちらが2023年である。


同じである。 グラスの形も、黒いカップとソーサーも、注文の中身も、何ひとつ変わっていない。3年空けて、別の季節に、別のカメラで撮っているのに、写っているものが同じなのだ。
しかも私は、2回目に注文するとき「前もこれを頼んだな」と思った記憶がない。メニューを見て、そのつど選んで、結果的に同じところに着地している。
なぜ同じものになるのか
自分なりに理由ははっきりしている。
私はコーヒーに、コクと苦味を求めている。 軽やかで酸味のあるものは好まない。近年のスペシャルティコーヒーは明るい酸味を魅力として押し出すものが多く、それが素晴らしいのはわかるのだが、私の舌はそちらに動かない。
だからメニューを開いても、自分の手が伸びる範囲は最初から狭い。深く濃いものを探す。アイスコーヒーとエスプレッソというのは、その条件にいちばん素直に当てはまる2つだった。
つまり私は冒険をしていない。好みがはっきりしている人間は、選択肢の多い店でこそ同じものを選ぶ。 3年空いても着地点が同じだったのは、店が変わらなかったからではなく、私が変わらなかったからである。
これは酒でも同じことをやっている自覚がある。初めての店でとりあえずビールを頼み、二杯目でだいたい同じ方向へ行く。呑み歩きの記録を積み上げてきて、自分の注文の癖が写真の上ではっきり可視化されたのは、この店が初めてだった。
定点観測というのは、店を観測しているようでいて、実は自分を観測している。 そのことに、この2枚を並べて気がついた。
2026年は、食事も頼んだ
1回目はコーヒーだけで帰った。2回目は昼にかかる時間だったので、食事も頼んでいる。
卵焼きサンド

厚く焼いた玉子を白い食パンで挟んだサンドである。断面が層になっていて、玉子の黄色と食パンの白がきれいに分かれている。上に緑のハーブがひと枝のっていた。
面白いのは薬味が別に添えられていたことで、皿に海苔と柚子胡椒、それに生クリームが置かれていた。つまりひと口ごとに味を変えられる。柚子胡椒をつければ辛みと柑橘が立ち、海苔をつければ和の方向に寄り、生クリームをつければ甘い側に振れる。
同じものばかり頼む人間に、皿の上で選択肢を出してくる料理だった。皮肉なものである。
カツハヤシライス
同じ写真の左側がそれだ。白飯の上に濃い色のソースがかかり、カツが並び、脇に葉物のサラダが添えてある。カツはしっかり衣が立っていて、ソースはハヤシらしい濃い茶色だった。
コーヒー屋で出てくる食事としては、想像よりずっと骨のある一皿である。
フレンチトースト

小さな鉄のスキレットに入って出てきた。表面はしっかり焼き色がついていて、上に白いアイスがひとつ、その上から茶色いパウダーがかかっている。おそらくコーヒーの粉だろう。断面には気泡が見えていて、卵液がよく染みているのがわかる。
熱い鉄と冷たいアイスという、わかりやすく強い組み合わせだった。
酒を飲まない日にも、店は選べる
呑み歩きを続けていると、「今日は飲まない」という日をどう過ごすかが、意外と難しくなってくる。飲まないなら店に入る理由がない気がして、コンビニでコーヒーを買って歩いてしまう。
ただ、それは少しもったいない。店に入る理由は酒だけではない、というのがこの日の収穫だった。
涅槃像を見て、少し歩いて、静かな店に座って、濃いコーヒーを2杯飲む。それだけで午前中がひとつの体験としてまとまる。夜に博多で飲んだ2軒と、この午前中のコーヒーは、同じ旅の中で等しく記憶に残っている。
これから行く人への申し送り
- 南蔵院とセットで組むといい。 私は涅槃像を9時45分に見て、11時過ぎに店に着いている。午前中にこの2つを片づけると、午後がまるまる空く
- 酸味の軽いコーヒーが好きな人ほど、私の注文を真似しないほうがいい。 私が頼んだのはコクと苦味に寄せた2杯である。スペシャルティコーヒーを出す店なので、明るい味わいのものも選べるはずだ
- 食事も頼めるので、昼をまたぐ時間に行くのは悪くない。 ただしコーヒーだけで帰っても、まったく居心地は悪くない店だった
- 写真を撮るなら窓際の席がいい。 2023年に撮ったアイスコーヒーの写真は、窓の外の緑が背景に入ってくれた
研究員の結論
篠栗珈琲焙煎所は、酒を飲まない午前中の受け皿として非常に優秀な店である。 焙煎の現場と客席が地続きになっていて、コーヒーがどこから来たのかが目に見える。食事も出るので、滞在時間を自分で決められる。
そして私にとってこの店は、もうひとつの意味を持ってしまった。3年空けて2度訪ね、まったく同じ2杯を頼んでいたという記録が残ったからだ。人間の好みというのは、自分で思っているよりずっと動かない。
次に行く機会があれば、今度こそ違うものを頼んでみようと思う。思うだけで、たぶんまた同じものを頼む。
同じことを、中目黒でもやっていた。2年近くかけて3回通い、3種を飲み比べて、結局いちばん最初に出された一杯に戻ってきた。好みが動かないというのは、どうやら店を選ばない。
→ スターバックス リザーブ ロースタリー 東京|エスプレッソマティーニを3回、3種飲み比べて最初の一杯に戻った【中目黒】
なお、この篠栗の午前をはさんだ2026年7月の福岡遠征は、酒のほうもまとめてある。
→ 福岡遠征の呑み歩き3店まとめ|博多駅・櫛田神社・西中洲を歩いた記録【2026年7月】
店舗情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 店名 | 篠栗珈琲焙煎所 |
| 住所 | 福岡県糟屋郡篠栗町彩り台3-18 |
| 開業 | 2023年3月(同年4月にグランドオープン) |
| 最寄り | JR篠栗線の各駅から車。南蔵院とあわせて回りやすい |
※営業時間・定休日はこの記事では記載しません。公表値は変わることがあるので、行く前に必ず店舗にご確認ください。
※筆者の訪問は2023年8月7日と2026年7月18日です。記事中の飲みもの・料理はいずれも訪問時に実際に注文したものですが、メニューは現在と異なる可能性があります。上表は2026年7月時点で確認した情報ですが、お出かけの前に必ず店舗にご確認ください。南蔵院の涅槃像の参拝時間も変更される場合がありますので、あわせてご確認ください。