まだ、何も食べていなかった。
席に案内されて、座って、お冷が出てきた。それだけである。
その時点で、私はもうこの店を気に入っていた。

昭和のコップ
このコップだった。
すりガラスに、オレンジと白でプリントがしてある。ラケットを持った女性が、片足を上げて構えている。
昭和のコップである。
説明が難しいのだが、たぶん同世代の人には一発で伝わると思う。家にあった。あるいは、親戚の家にあった。よく分からない絵柄で、なぜかセットで何個もあって、割れるまで使われていたあれである。
それが、お冷のコップとして出てきた。
正直に書くと、ワクワクした。そして感動した。
うろ覚えで来ていた

栃木県芳賀郡益子町のあづま庵。手打ちのうどんとそばの店である。
紺の暖簾に「うどん そば」。看板に「あづま庵」。瓦屋根の、住宅のような佇まいで、入口に「営業中」の札が下がっている。
なぜここに来たのか、実ははっきり覚えていない。
もつ煮込みの評判が良かった、と聞いた気がする。気がする、という程度である。下調べらしい下調べをしていない。
2023年10月2日、月曜日の昼だった。
手書きの品書きが、壁一面にある

中に入ると、こうだった。
木の一枚板のテーブル。カウンター。そして壁一面に、手書きの品書きが貼ってある。
棚には小物と花が置かれ、古いポスターのようなものも掛かっている。
レトロという言葉で片づけたくない感じがある。わざと古くしたのではなく、続けてきた結果こうなったという店の顔である。
言葉にすると、風情がいい。それに尽きる。
ノンアルコールビールと、もつ煮込み

まずノンアルコールビール。
例によって、この記事にも酒は出てこない。ただ、缶とグラスが出てくると、卓の上がちゃんと「呑み屋の卓」になる。それで十分だった。

もつ煮込み。
陶器の鉢に、たっぷり入っている。白ネギが山になって乗っている。汁が澄んでいて、白っぽい。
これが評判だと聞いた気がして来たのだった。実際、これを頼まなかったら来た意味がない。
そして、蕎麦

もり蕎麦は朱の器に。けんちん蕎麦は黒の器に。
けんちん蕎麦は、根菜と豆腐の入った汁の中に蕎麦が沈んでいる。ネギが散らしてある。
これについて、少し調べた。
けんちん汁と蕎麦を合わせるのは、この地域の食べ方である。茨城県では「つけけんちん」が郷土料理として知られていて、農林水産省の郷土料理のページにも載っている。熱いけんちん汁に、冷たいざる蕎麦をつけて食べるのがつけけんちん、汁の中に蕎麦を入れるのがけんちん蕎麦、という区別があるらしい。
大根や人参といった根菜が豊富に採れる土地だから、けんちん汁がよく作られ、そこに蕎麦を合わせるようになった。この習慣は江戸時代の後期にはすでにあったとされる。
私が食べたのは、汁の中に入っているほうだった。

刺身定食も頼んだ。刺身、ご飯、漬物、蕎麦、醤油。定食としてひととおり揃っている。
手打ちうどん・そばの店で、刺身定食がある。この幅の広さも、町の店という感じがする。
調べずに行くと、驚ける
ここで、うろ覚えで来たことの話に戻る。
私はこの店について、ほとんど何も知らずに入った。もつ煮込みが評判らしい、という曖昧な記憶だけである。写真も見ていない。口コミも読んでいない。
だから、コップで驚けた。
もし事前に調べていたら、どうだっただろう。「レトロな店内」「昭和の雰囲気」といった言葉を先に読んでいたら、あのコップは確認になっていたと思う。聞いていたとおりだ、で終わる。
驚きは、知らないことの上にしか乗らない。
もちろん、調べていくほうが失敗は減る。営業時間を確認せずに行って閉まっていた、ということも私は何度もやっている。それでも、たまには何も知らずに入りたい。
この日は、それがうまくいった日だった。
焼き物の町で、感動したのはガラスだった
ここで、書いておきたいことがある。
益子町は、焼き物の町である。
益子焼。江戸時代の終わりごろ、嘉永6年(1853年)に大塚啓三郎が根古屋に窯を築いたのが始まりとされている。益子村で良質な陶土を見つけたのがきっかけだったという。
そして、ここが大事なのだが——
益子焼は、鉢、水がめ、土瓶といった日用品の産地として発展した。
美術品ではない。毎日使うものの産地として始まっている。
その町で、私がいちばん感動したのは、ガラスのコップだった。
自分でも少しおかしい。焼き物の町に来て、覚えているのがガラスである。
でも、あのコップも日用品だった。
「良いものを出す店」ではなく
考えてみると、私が感動したのは、コップが良い品だったからではない。
昭和のプリントグラスは、高価なものではない。当時はどこにでもあった。むしろ安物の側である。
感動したのは、それがまだ現役で使われていることのほうだった。
割れずに残っていて、洗われていて、客の前に出てくる。日用品が、日用品のまま生き延びている。
「良いものを出す店」ではなく、「日用品がちゃんとしている店」だった。
そしてそういう店は、たいてい料理もちゃんとしている。というより、順番が逆かもしれない。卓の上の一つひとつを雑に扱わない店だから、料理も雑にならない。
研究員の結論
また行くか:行く。
この店で私が持ち帰ったのは、評価は最初の一手で決まることがあるという事実だった。
料理を食べる前に、私はもうこの店を好きになっていた。お冷が出てきただけで、である。
これは店にとって理不尽な話にも聞こえる。実力は料理で見るべきだ、という考えもあると思う。でも客はそんなに公平ではない。席に着いて最初に触れたものが、その日の全部の印象を決めてしまうことがある。
そしてあづま庵は、そこを外していなかった。
うろ覚えで来て、下調べもせず、もつ煮込みの評判すらあやふやだった。それでも席に着いた瞬間に、来て良かったと思っていた。
向いているのは、古い店が好きな人。新しくて綺麗な店を求めているなら、たぶん別の選択肢がある。
そして、あのコップを見て「懐かしい」と思える人。
店舗情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 店名 | あづま庵 |
| 所在地 | 栃木県芳賀郡益子町 |
| 種類 | 手打ちうどん・そば |
| 頼んだもの | もり蕎麦/けんちん蕎麦/刺身定食/もつ煮込み/ノンアルコールビール |
| 訪問日 | 2023年10月2日(月)12:19〜12:39ごろ |
※価格は掲載していません。筆者が控えておらず、記憶で書くと不正確になるためです。
※営業時間・定休日はこの記事では記載しません。公表値は変わることがあるので、行く前にご確認ください。
※もつ煮込みの評判については裏を取れていません。筆者が「そう聞いた気がする」という程度の記憶で訪問しており、本文もその形で書いています。
※外観の写真に写っている商品券の幟は2023年10月時点のものです。
※店の器が益子焼かどうかは確認していません。益子焼についての記述は、益子町および栃木県の公開情報によります。
※けんちん蕎麦・つけけんちんに関する記述は、農林水産省「うちの郷土料理」ほかの公開情報によります。
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※記事中の飲食物・店内の様子はいずれも筆者が実際に訪問して見聞きしたものです。訪問は2023年10月で、本記事の公開時点から2年半ほど前にあたります。飲食代はすべて筆者が自分で支払っています。